【社会と企業】05.日本のルール(労使関係)

企業が、自給自足に対峙した、幸せ生産のコミュニティの形態であると考えると、企業は搾取する側・労働者は搾取される側という対立構造は、非常に奇異な前提です。

幸せ生産のコミュニティに所属するのが嫌であれば、やめて自給自足の幸せを求めればよいし、或いは自ら欲しい幸せの生産コミュニティを作ればよいのです。^

産業革命が興る前、或いはその発展途上においては、財・サービスの生産技術、チームワークを行なう上での時間・場所の制約の問題から、社会全体の幸 せの平均レベルは低く、多くの人たちは最低限の生活、健康に生きることが難しい状況であったかも知れません。しかし、現在は、日本というコミュニティに属 する限りは、健康に生きることは保障されており、その前提で搾取する側・労働者は搾取される側という対立構造は、江戸時代のルールを明治維新に引きずって いるようにも見えます。^

死に物狂いで働くこと、働かないことも選択肢であり、どちらが幸せとは一概には言えません。それを世界に稀に見る“平等”という観念で、死に物狂い で働いている人、或いは勉強している人と、働かない人、勉強しない人の、分業の幸せを受ける権利は同じであると主張するのは、世界の他の多くのコミュニ ティのルールである“フェア”から外れていると思います。^

分業のコミュニティでどれだけ苦労をしたかに対応した所得(分業の対価を受ける権利)に格差があるのは当たり前ではないでしょうか?「我々が暮らし ている社会」で述べたように、世界的にみると国民一人当たりのGDPが1万ドルを超えると所得の増加は幸せの増加につながらず、働かない選択肢も十分に存 在します。問題は苦労しようとしない人、しなかった人が不当な所得を受けることだと思います。苦労とは、「幸せを作る工数 x 苦労の大きさ」の積であ り、遊びたいのを我慢し、一生懸命勉強し、家族の協力を得て一生懸命仕事をした人は、それなりの対価を得るのがフェアであると思います。^

労使関係の別の論点は、企業が働く人を選び、また働く人が分業の場を選ぶ自由です。今の日本のルールは、働く人は自由に企業を選ぶ権利があるが、企 業は一旦働く人に正規社員として参加していただくことを決めると、終身雇用を義務付けるという法律です。正規とはある一定以上の時間の無期契約であり、企 業がやりたいことと社員がやりたいことが異なる場合、或いは、その社員が頑張らない人であっても解雇はできないのです。社員が納得できる理由なく解雇を通 告しようものなら、労組という団体が、不当解雇とシュピレヒコールを挙げます。

企業と働く人は終身雇用を前提とせず、企業はもっと自由に働く人を選び、働く人はいずれか1つの分業のコミュニティに属するのではなく、2つ、3つのコ ミュニティに属し、貢献できることをやる社会はおかしいでしょうか?正社員・終身雇用という雇用形態を規範とするのは過去のものとなり、学生時代に燃えた 部活や文化祭のような感覚で企業に所属する。企業は属人的な知識を組織知に変換する仕組みに投資し、また人を育てる。育てた人が、(利己のために、元の会 社の秘密情報を漏洩・悪用したり、不当に顧客を奪い取ったりせず)別のコミュニティに転職すれば、それは社会の幸せを増加させる一ユニットとしては Happyなことだと考える。しかし自給自足の場を与えられ、健康に生きることは最低限保障された社会。これはおかしな社会でしょうか?

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