【社会と企業】01.我々が暮らしている社会

5月 17th, 2012 No Comments »

社会のパラダイムシフトが進み、国のあり方、企業のあり方が問われています。このような状況では、国とは何か、企業とは何かという、社会の目的から、考える必要があります。

国も企業も、その本質は、人の幸せを目的として、構成員が苦労を分かち合い、作られる幸せを構成員で分配するコミュニティです。コミュニティの代替手段は、自給自足です。コミュニティが、自給自足と比較して選択されるためには、「受幸者人数 x 幸せの大きさ」が「幸せを作る工数 x 苦労の大きさ」を上回る必要があります。我々は、「受幸者人数 x 幸せの大きさ」を「幸せを作る工数 x 苦労の大きさ」で除した指標を、CSR指標と呼んでいます。CSR指標>1であれば、国、地方自治体、企業、その他のコミュニティが、存在する意義があることになります。

CSRとは、本業と異なる社会貢献と考えている人たちもおりますが、本来は、企業の存在意義がCSRであり本業そのものです。人為的に作られた、CSR指標の妥協的、一目的変数である、利益を指標として、PDCAを回すのではなく、CSR指標で自らのコミュニティの存在意義を律する必要があります。

国は、安全、健康、生きるなど最低限の生活を確保することを目的に、存在するコミュニティです。GDPの増加(=経済成長率)は、特定の社会環境におけるCSR指標の説明変数として意味がありますが、日本はもはやその環境にはありません。国民の主観的幸せを目的変数として、国民一人当たりのGDPの大きさで説明させると、1万ドル当たりから相関が弱くなります。

何故、原子力発電が必要なのか、何故、年金保険料で支払った額以上の受け取る権利を増税により他人が保障する必要があるのか、何故、国益、国益というのか、中国人も韓国人も日本人も一人の人であることに違いはないのに、何故、世界には学校もない、医療も受けられない人たちがいるのに、ゲームに興じ、生活が苦しいと不満をいい、それを弱者として保護しなければならないのか、何故、発展途上国で同じ苦労をした人と、日本で同じ苦労をした人の、受けられる幸せの大きさが異なるのか、、、

企業も国も含めて現存のコミュニティは上手く機能しているとは言えません。経済成長率や、国の収支バランスや、株主資本主義や、既成のルールを是として、小手先の施策を論じる政治家や、自社の短期利益にしか興味がない企業経営者は、コミュニティを変えることはできません。CSR指標に照らし合わせて、ゼロベースでコミュニティのあるべき姿を考えなおすことが、求められています。

【社会と企業】02.企業経営の本質(その1)

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企業も国も、自給自足に対峙した、幸せ生産のコミュニティの一つの形態であることは、前回お話させていただきました。

家を建てる、狩に行く、魚を捕りに行く、水を汲み行く、お米を作る、野菜を作る、綿を紡いで衣服を作る、薬草を取りに行く、これらのことを自給自足 で行うことは可能です。しかし世帯が集まり、分業をすることにより、より少ない工数と苦労で、多くの幸せが得られることが分かりました。この分業の仕組み により、多くのモノ、サービスが効率的に生産できるようになり、更なる分業の発展のために、貨幣、市場などの仕組みが発明されました。

会社は、この幸せの生産を目的にした分業形態の一つです。現在、馴染みがある、自由・競争主義社会では、会社は自由に作れますが、幸せを生産する効 率が悪いと、強制的に解散させるルールにしています。つまり、「受幸者人数 x 幸せの大きさ」を売上、「幸せを作る工数 x 苦労の大きさ」をコストと 称して、売上-コスト>0でないと、倒産というルールです。また競争によりCSR指標値を継続的に大きくするため、競争を損なう巨大企業の出現に歯止めを かける、独占禁止法が施行されています。

ところがこの原理原則を忘れて、いつのまにか企業の存続自体が目的となったり、企業は株主のために存在するとか、利益を上げるための小手先のテク ニックに執着したりと、本末転倒な状況があちこちで見られます。MBAを始めとする学校も、幸せではなく、利益を目的として、教育体系を作っているので、 本質を理解できていない学生は、企業は株主のために存在し、株価を上げるためには、云々と、マネーゲームに興じることに陥ってしまいます。

【社会と企業】03.企業経営の本質(その2)

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では企業経営は本来どうあるべきか?まずは何の分業の場なのか、自分のコミュニティを定義することです。何を強みにして、誰のどんな幸せを作ろうと しているのか?そのために誰と協力すべきか?これが「外向きの戦略」です。誰のどんな幸せを作ろうとしているのか?は、ターゲット顧客、未充足ニーズ、提 供価値、マーケティングミックスなどから構成されます。誰と協力すべきかは、バリューチェーンにおける自社の位置付けです。最後に、何を強みにしては、コ アコンピテンス、競争優位性の定義です。自由主義ですから強みがなくとも分業の場を作ることは可能ですが、競争主義により強みがなければ早晩退出を余儀な くされます。

次に、この「外向きの戦略」に賛同して苦労する人に集まっていただく必要があります。苦労の拠出の形態は、過去の苦労から得られた幸せを人に託す株 主/寄付者と、自ら労働を提供する従業員の2つに分類できます。どんな株主/寄付者から苦労を提供していただくかは「財務戦略」、誰に労働力を提供してい ただき、個々人に何をしてもらうか、そして生産性を上げるためのプロセスや役割・タスク分担、作った幸せと交換で得られる対価の分配の仕組みの設計を「内 向きの戦略」と呼びます。

最後に、外向きの戦略/内向きの戦略を実際に運営する仕組み、つまり人の採用・配置・目標設定・育成・処遇などの人事・教育制度、個人の知恵を組織 の知恵に変換するナレッジマネジメント、個々人の自発的行動変革の仕組み、そして外向きの戦略・内向きの戦略を含めてこれらの仕組みを使いPDCAを回す 仕組み全体を「マネジメントシステム」と呼んでいます。

「受幸者人数 x 幸せの大きさ / 幸せを作る工数 x 苦労の大きさ」の数値をできるだけ大きくするために、「外向きの戦略」、「財務戦略」、「内向きの戦略」を作り、「マネジメントシス テム」により組織・個人のPDCAを回すことが企業経営です。PDCAのCつまりCheckは、幸せの受け手(顧客)と、幸せの作り手(従業員、外部協力 者)の評価を外せません。幸せの受け手の評価は売上につながり、幸せの作り手の評価はコストにつながり、その差が利益となります。

ただし利益は企業経営の巧拙を計測する正確な指標ではなく、CSR指標の近似指標として作られたものであり、利益を上げているのが、必ずしもよい企 業とは言えません。つまりCSR指標を企業の巧拙の指標とし、その上で利益を上げることが、企業経営者に求められています。かつて議論があったような、 ルールの隙間を縫い、不備をついて、利益を上げて何が悪いという人は、企業経営者の資格はありません。

【社会と企業】04.日本のルール(総論)

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国、企業などのコミュニティは、「受幸者人数 x 幸せの大きさ / 幸せを作る工数 x 苦労の大きさ」というCSR指標の数値をできるだけ大きくするための分業の形態です。それらコミュニティを、社会の目的に整合させるために、様々なルールが定められています。

例えば、自由・競争主義においては、どの企業のCSR指標が大きくどの企業が小さい、或いは企業経営において、やって良いこと、悪いことを定めるた め、商法や労働基準法などの各種法律が制定されています。現状の法律は、明治時代からのもので、その後改定はあるにしても、産業革命、敗戦という社会環境 化でよしとされたルールが、今では役に立たないことは自明のことです。鎖国下の江戸時代のルールで、明治維新は推進できないと同じで、一昔前のコミュニ ティのルールで、今の日本の社会の幸せは効率よく生産できません。

こんな単純なことが何故分からないのか?官僚も、政治家も、学者も、どこかの国を先進国と称して社会の仕組みをまねをすることは可能ですが、ゼロ ベースであるべき国の仕組みを考える能力がないからだと思います。目的、ルールが明確な自然科学の世界では、日本人は勤勉さと平等によるチームワークを強 みとして、様々な工夫を凝らし、世界をリードすることができます。しかし、異文化、個性の集合体である社会を観察し、社会の目的、ルールを提言する社会科 学の世界では、非常に遅れています。欧米の文献を検索し紹介するのが学問と錯覚している現状では、日本には社会科学という学問が存在しないと言っても過言 ではないと思います。

何故、原子力発電は必要なのか?何故、年金保険料で支払った以上に受け取る権利を守り増税しなければならないのか?何故、経済成長が必要なのか?何 故、中学校でダンスの授業が必要なのか?さっぱり分かりません。本来、そのような政策の議論は、個々人の幸せの集合体としての、社会の幸せをどう考えるの かという議論が先にあり、それを目的として、各政策が議論されるべきです。

私の前職の同僚も何名か政治の社会に入りました。しかし数人の力では今の政治は変わりません。現状を根底から覆すパラダイムシフトを起こす必要があ ります。主張に差が無い政党を選んで、後は闇の中ではなく、日本人の幸せとは何かを明確にし、そのための必要なルールをゼロベースで提言する政策があり、 それを国民一人ひとりが選ぶのがあるべき政治の姿だと思います。マニュフェストを闇の中でないがしろするなど言語道断で、マニュフェスト変更の際は、国民 に信を問わなければなりません。

【社会と企業】05.日本のルール(労使関係)

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企業が、自給自足に対峙した、幸せ生産のコミュニティの形態であると考えると、企業は搾取する側・労働者は搾取される側という対立構造は、非常に奇異な前提です。

幸せ生産のコミュニティに所属するのが嫌であれば、やめて自給自足の幸せを求めればよいし、或いは自ら欲しい幸せの生産コミュニティを作ればよいのです。^

産業革命が興る前、或いはその発展途上においては、財・サービスの生産技術、チームワークを行なう上での時間・場所の制約の問題から、社会全体の幸 せの平均レベルは低く、多くの人たちは最低限の生活、健康に生きることが難しい状況であったかも知れません。しかし、現在は、日本というコミュニティに属 する限りは、健康に生きることは保障されており、その前提で搾取する側・労働者は搾取される側という対立構造は、江戸時代のルールを明治維新に引きずって いるようにも見えます。^

死に物狂いで働くこと、働かないことも選択肢であり、どちらが幸せとは一概には言えません。それを世界に稀に見る“平等”という観念で、死に物狂い で働いている人、或いは勉強している人と、働かない人、勉強しない人の、分業の幸せを受ける権利は同じであると主張するのは、世界の他の多くのコミュニ ティのルールである“フェア”から外れていると思います。^

分業のコミュニティでどれだけ苦労をしたかに対応した所得(分業の対価を受ける権利)に格差があるのは当たり前ではないでしょうか?「我々が暮らし ている社会」で述べたように、世界的にみると国民一人当たりのGDPが1万ドルを超えると所得の増加は幸せの増加につながらず、働かない選択肢も十分に存 在します。問題は苦労しようとしない人、しなかった人が不当な所得を受けることだと思います。苦労とは、「幸せを作る工数 x 苦労の大きさ」の積であ り、遊びたいのを我慢し、一生懸命勉強し、家族の協力を得て一生懸命仕事をした人は、それなりの対価を得るのがフェアであると思います。^

労使関係の別の論点は、企業が働く人を選び、また働く人が分業の場を選ぶ自由です。今の日本のルールは、働く人は自由に企業を選ぶ権利があるが、企 業は一旦働く人に正規社員として参加していただくことを決めると、終身雇用を義務付けるという法律です。正規とはある一定以上の時間の無期契約であり、企 業がやりたいことと社員がやりたいことが異なる場合、或いは、その社員が頑張らない人であっても解雇はできないのです。社員が納得できる理由なく解雇を通 告しようものなら、労組という団体が、不当解雇とシュピレヒコールを挙げます。

企業と働く人は終身雇用を前提とせず、企業はもっと自由に働く人を選び、働く人はいずれか1つの分業のコミュニティに属するのではなく、2つ、3つのコ ミュニティに属し、貢献できることをやる社会はおかしいでしょうか?正社員・終身雇用という雇用形態を規範とするのは過去のものとなり、学生時代に燃えた 部活や文化祭のような感覚で企業に所属する。企業は属人的な知識を組織知に変換する仕組みに投資し、また人を育てる。育てた人が、(利己のために、元の会 社の秘密情報を漏洩・悪用したり、不当に顧客を奪い取ったりせず)別のコミュニティに転職すれば、それは社会の幸せを増加させる一ユニットとしては Happyなことだと考える。しかし自給自足の場を与えられ、健康に生きることは最低限保障された社会。これはおかしな社会でしょうか?